UNISON HAWAII

 

自分への愛をすすめる会会報  

2001年11月28日

NO.6 VOL.1

 

みなさま、いかがお過ごしですか?  日本の方は、寒さも増して、おこたが気持ちのよいシーズンでしょうね。こちらハワイは、雨が降ればかなり涼しいですが、やっぱり、昼は暑い!  今も、曇り空ですが、むしむしとしております。おとつい当たり、すごい嵐で、雨の音があまりにすごく目覚めたくらいです。めずらしく、南西方面から雨が叩き付け、私のベッドは、丁度そちら向きで、窓は、ハワイ特有のジェラシーというガラス板が何枚も重ねて張り合わせてあるやつで、要するに、ぴたっと閉まっているわけではないんです。だから、笑える話、あまりの雨で、顔の上を雨のしぶきが舞い込んで!  もう、仕方ないなぁって感じでした。でも、おかしかったのが、翌朝、窓を見るとものすごいキレイになってる。あれだけの強い雨が汚れを全部取ってくれたみたいで、それも、雨降る前に丁度、その網戸すごい汚れてるから、掃除機で汚れを吸い取ろうなんて思ってたとこだったのです、まじで。そうしたら、あらまぁ!きれーいになっているではないですか。その汚れが水で集って、ガラス板の上に付着しているのをちょっと取って、もう完璧でした。本当に不思議です。南西方向って言うのは、なぜか、いつもあまり風も吹かないしで。

 

昨日、丁度、ジェームス・レッドフィールド(「聖なる予言」著者)「シャンバラの秘密」(日本語題これでよかった?)をやっと読み終わったとこですが、祈りの場を作り、それを広げていくことで、物事を現実化することができるなんていうお話だったんで、私、知らないうちにそれをやってたのかしら、なんて一人笑っておりましたが、まぁ、必要なことが起きるようになっているって言うのが、めぐりなんで、掃除もしてくださったのかしらなんて、勝手に思ってます(大爆笑)

 

みなさんは、あの本お読みになりましたか?  結構おもしろかったですね。いろいろと、思う事もありましたけど。恐怖に満ちた人達が「悪」になるっていう話とかは、確かにそうだけど、その恐怖をどうやって取り除くかって言うとこのサポートがないじゃない、とか思ってしまいましたが、どっか、「意志」の力とか、そういうものだけで解決するというものしか感じなかったんです。こわくなっても気張って、祈りの場を維持し続ける、とかいう話ばかりだったように思うのですが、私だったら、その辺をもう少し、どうにか掘ってあげるようなサポートしてあげないと、「恐怖」って言うのは、恐怖症って言うのがあるくらいで、その解決をしてあげないことには、気張るだけじゃできないことがたくさんあるだろうにと、思わずにいられなかったんです。その辺が、男性性と女性性の違いなのかもしれませんね。男性性の弱さは、「こわい」ということを極力こわがっているというところでしょうか。だから、戦いになると、戦いに行かないことがこわさを表し、弱さを表すから、戦いに行く、みたいなとこが、今でもある気がします。そして、その攻撃性というのを、たくさんの人達は、「怒り」というものにして、自分の中にエネルギーを貯えて出陣する。だから、こわさを感じると「怒り」に替えてしまってきた、なのかな。思わぬ気づきでした!

 

さて、「痛み」ということで、最近思ったことがあるんです。私は、「痛い」事とかを極力避けてきたここ数年だったんだけど、いい痛みって言うのもあるなってここ数日思うんですよ。ただ、それを勝手に痛いだろうなって思っているって言う方が正しいのかもしれない。本当の痛みじゃないかもしれないと思います。

と言うのは、うちのトラコとのことですが、彼女が目を野良猫に引っかかれて、獣医さんへ行き、薬をもらってきたんだけど、もう、私にブラシさえさせてくれない彼女が目に薬なんて入れさせてくれるわけないよね、と思いつつ、無理だろうな、嫌がるだろうしなと思っていたんです。だから、2日放っておいたんですよ。そうしたら、3日目にやっぱり、目を閉じちゃって、これはやっぱりまずいと思い、意を決して、バスタオルで包むと引っかかれないと聞いたのを思い出し、ごはんを食べに来たトラコを捕まえようとした途端、察知した彼女は逃げの体勢、捕まえにくい所へと逃げていって、外へは出られないようにしていたので、しばらく、にらみ合い。でも、少し放っておいて、出てくるまで待とうと思っていると、私がキッチンへ立ったのを見て、ついてきたんですよ。とりあえず、ごはん食べさせて、その後にバスタオルで捕まえると、もうもう、怒る怒る! ヒャーヒャーのオンパレード! 満身の力を出して逃げようとする。こっちもひるみたくなるほど。でも、今回は、そこで、引いちゃうと、あの子の目のためにならないと、私も、それこそ「心を鬼にして」押えこむ。顔が般若のように歪むトラコを見て、もうこっちもビビリそうになりながらも、どうにかこうにか、タオルの中に包んで、片手で押え、もう一方で薬をつけるんだけど、目を閉じちゃう。両手使えれば、あけさせられるんだろうけど、できず、まぶたの間に塗り薬を流し込むんだけど、もう、つけた途端、体をよじり、体一杯で、イヤだと表現してる。それでも、そのまぶたの中に流し込んで、中へ入るようにこすり付ける。その間、トラコは抵抗を続け、「もうこれでいいよ、これで。」と早くもギブアップしたい自分と戦いつつ、私はふんばる。そうして、やっとこれでいいという所で、「はい、いい子だったね。ありがとう。」って言って、解放してあげると、またしても、ヒャーヒャーと怒りながら、一目散に外へ消えていきました。どっかで、よかったと言う気持ちと、私すごい嫌われたかもしれない。戻ってこないかもしれないという気持ちが渦巻きました。でもね、どっか、「よかった」って言う思いの方が大きくて、何か、達成感って言う感じがしたんです。

 

今までだと、トラコも自分の人生を自分で選ぶ権利あるんだから、病気になる権利も死ぬ権利もあるはずだよね、って。だから、トラコ嫌がることは、やっぱり、やっちゃいけないって。そう思っていた私がすごくいて、彼女の権利を尊重ということを重んじていたんだけど、トラコは、私の責任下で飼っていて、それを選んでいるのはトラコなんだって。私は、トラコの親なんだって思った時、子供が嫌がることをしないでいたら、親の義務は果たせないよねって。私の猫である限り、私が責任持って、トラコの健康を維持する助けをすべきなんだって。どっかそう思えた時に、私の中にエネルギーのシフトを感じました。ましてや、トラコ、あの薬痛かったわけじゃないと思うんですよ。ネトネトしてる感じがいやだっただけだと思うんです。人は勝手に、痛いかもしれない、と言う思いが、痛いにちがいないになり、いやなこと、だめなことって思う、と言うのがあると思うんです。それこそ、お産というのが、痛いものだと信じているから、痛みがあるっていう話もありますよね。やったことのないこと、知らないことはこわいから、それを痛いに勝手にしてるのかもしれない。こわさを押すことを痛みと思ってしまうは、すごいあるのかもしれません。でも、そのこわさを押すことをした時に、痛みもなく、新しい世界が開け、より幸せな人生が広がる、それは確実にあることです。ふんばるということが必要な時がある、そんなことを思った出来事でした。

 

そうしたら、私、変な話なんですが、急に、英語のTV番組が見たくなって。ここ2、3年ほど、日本語放送ばかり見ていた私が、急に。多分、何か少しばかりのチャレンジがしたくなったのかもしれません。このトラコの一件で。楽なことをしたい、その思いでずっと楽に自分をさせてきてあげました。それは、私にとって、とても必要なことだったんです。やっぱり、世代のせいでしょうか。楽に生きるということを本当にやらせてもらえたことがなかったんじゃ、と思いますから。(罪悪感なしに)そういう中で、人生は、いつも戦場で、がんばらなきゃいけないと信じさせられてきた自分を、リラックスさせてあげるためにも、らくーな思いをする必要があったんだと思います。「苦」ばっかりを経験させられてきた分、「楽」を入れてあげることによって、バランスを取るということでしょうか。「苦あれば楽あり」は、必ずしもそういう順番で物事が起きる必要があると言っているんじゃないと思います。「苦」という言葉がきついですよね、とりあえず(笑)苦というよりは、「ふんばり、力を入れる」かな、そういうことをする時があってもいいってことですかね。力を抜けば、力を入れる時もある、これの方が正しい言葉かな。自分のために、自分の愛する者のために力を入れる時があってもいい、それを学びました。今の私は、やっと、「つらいのが人生」と思ってきた自分を中和させてあげられたのかもしれません。これから、バランスをもって生きて行けるような気がします。

トラコですが、その晩、1時間くらいしたら、ふらっと戻ってきました。何だか、別に怒っている風でもなく、スリスリッとかしてきて、私が、本当に親をやっているって理解してくれたような気がします。ちゃんと、トラコは、私の愛を感じてくれてるんだって思いました。

実は、昨日の夜も、少しばかり要領のよくなった私は、薬をつけてやったんですが、もちろん怒ってるんですよ。目を剥いて(笑)昨日より早く終えてあげられたし、その後も、ヌイグルミ使って、どうやって押えたら一番よくできるか、なんて、研究しちまいました(笑) 自分の中に、ドンという力が戻った気がしてます。

自分のために何か、こわいと思っていることをすると、力が自分の中にみなぎります。それは、決して、相手をこわがらせてコントロールするという事とは一切関係のないことです。もちろんこわがらせれば、当初は、ものすごい簡単に物が運びますが、関係は一辺に崩れるだけですよね。大切な人との関係であれば、なおさら、こわがらせるなんて言う、陥りやすい罠には自分を陥らせないことが要だと思います。

何でもバランスなんだと思います。ぐっと休んであげることはそのためにもすごい大切だと思います。現代人特に、知らないうちに、自分を楽にさせてあげてないし、罪悪感なくそれができる人が極めて少ないし。そう見えない人でも、罪悪感を感じているって言うところが、おもしろい所です。怒っている人を見たら、まずは、罪悪感持っていると思ってもいいくらい、自分を責めることはオートマチックですから。

トラコは、本当に私のソウルメイトだと思いますよ。トラコありがとう!

 

さて本題の第16回自愛学トークですが、今回は、エミリーに加え、こちら在住のJさんがいらしてくださいました。めずらしく、トークの前に何かことが起きて、それがタネになるがなく、常に思っていることをお話させていただきました。題して

 

「『いい人』でいられない自分が嫌い」

人は、みんなできるなら、「いい人」でいたい。だから、不愉快さを感じていたり、怒りを感じている自分を好きになれない。そういう自分を隠せるなら隠したい。そう思う事で、自分の「いい人」じゃない自分を嫌い、受けとめないで、認めないでいる。だから無意識に、自分を責める。しかし、人生というのは、「いい人」でいられないことが多い。だからこそ、人は、あまり幸せになれないと言っても過言ではないかもしれません。その「いい人でいられない自分」を、少なくとも受け入れてあげられさえしたら、不愉快さは、半分以上軽減すると思います。「いい自分」になれていない自分がすでに不愉快なのにも加えて、その自分を「こんなじゃいけない」と責める自分が出れば、倍、不愉快に、不幸せになるだけです。

 

そして、私にとって真実は、「いい人」になれない自分を「いい人」でいられるようにしてあげるにはどうしたらいいんだろうが、今生、生まれてきたひとつのレッスンだと思うので、「いい人」でずっといられる人がいたら、生まれてくる理由があまりないかもしれません。(笑)もちろん、そういう人が皆無なんてことは言いません。でも、人間として生まれたって言うことは、人間としていろんな感情を感じに来たんだと、私は信じているので、その感情を感じていることを責めるのは、大きなお門違いだと思います。

 

「不愉快さ」を感じている自分がいたら、「あー私は人間なんだなぁ」と言ってあげて欲しいです。私達は人間をやりに来ただけです。

 

ということで、今回は1時間半でテープ1本になってます。

 

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